アナザー・ワールド (2001)
ちあきなおみがシャンソン、ファドなどを歌った3枚組のアルバム『アナザー・ワールド』のDisc 1-5 にこの曲はあります。企画としてひじょうにおもしろく思い、購入したのですが、繰り返し聞いたのはこの1曲だけです。曲調がひじょうに耳に残ったせいでもありますが、「グラスの・・は愛なの」が「毒は」と聞こえたにもかかわらず、まさか殺人じゃないだろうと何度も聞き直し、最終的に歌詞ブックで確認しました。ひじょうに重苦しく暗い歌詞の内容が日本的すぎて嫌いだという声をネットで目にしましたが、アマリア・ロドリゲスの原曲の内容との違いにはひじょうに味わい深いものがあります。漁に出て船が難破し、もう帰ってこない夫の死を妻が嘆くという民衆的で非常にユニバーサルな「悲劇」のほうが好みだという方は多いのでしょうが、そのような一般性に背を向けた、ちあきの『霧笛』のどろどろした完全な一人称世界はここまで来ると逆に強い普遍性を獲得しているように思います。よく考えてみれば「グラスの毒」と聞いても、自分の耳を信じられなかったように、「毒杯の乾杯」による愛人の殺害などにリアリティーはありません。これは「西洋古典悲劇」の典型的設定です。『霧笛』の毒殺シーンは歴史性をもつ古典悲劇に共鳴し、「目まい」のようなものを感じさせ、そこが気に入っていました。
ところがそれからだいぶ経ち、YouTubeでこのテレビの録画を見て驚きました。アルバムで聴いたスタジオ録音と比べ、こちらのほうが古いのですが、番組の趣向で歌唱を演劇的にしていることでちあきの声の出し方も深いし、アルバムでは澄んだ音のギターだったバックがポルトガルギターのすこし籠もった音になっており、感覚に訴えてくる力がひじょうに強いのです。不気味です。このテレビ放送のほうが断然いい。それだけではありません。このYouTube画像はビデオ録画を機械処理でコンバートした通常のムービーではなく、テレビに映ったものを手に持ったビデオカメラで撮影したもので、画像がすこし揺れています。これを作為的にしたとすればすごい。古くから物語りの趣向として物語りの本体を物語とは時空、次元の異なるところにいる者の語り「カドラージュ(額縁)」で囲う構図がありますが、物語り世界の提示はそのように間接化することでリアリティーが強調されたり、嘘くさくなったり、要するにその対象世界の認識が影響を受けます。それと同じでこのテレビ放送の録画はビデオカメラを動かしている男がこの映像をジッと見ていると感じられる瞬間があり、ちょっとゾクッとします。 映像品質は当然劣化しているのですが、それが効果に転じているのです。 アナザー・ワールドというより、「異界」のにおいがします。
霧笛
霧笛
霧笛がすすり泣く 海沿いのホテル
これが最後の旅と決めたはずなのに
やめて そんなにやさしく
抱きしめないで 別れに
後ろ髪引くような
そぶりはよして
夜明けを告げて飛ぶ 海鳥の悲鳴
愛し疲れた胸に ひりひりと痛い
あなた 別れの乾杯
最後のグラス空けましょう
ありがとう 今日まで
夢の数々
あなた 私を許して
グラスの毒は愛なの
どなたにも あなたを
あなたを
渡せないから・・・
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